
横浜駅から徒歩10分程度の場所にある洲崎大神という神社に行ってきたと聞いたんじゃが?

初めて知ったんだけど、横浜駅の近くにあった神社だったんだ!
洲崎大神はどこにある?

テッドは横浜駅西口から10数分歩いて行きましたが、1番近い駅は京浜急行の神奈川駅です。神奈川駅から行くと4分程度で行けるそうです。

鳥居を入った瞬間、何やらここは!?ん?なんかすごい感じ(よくわからないけど🤣
重厚な感じというか、なにやら境内の木がただものではない空気を感じるぞ?

両脇の木もかなりの大木だし、御社殿が物々しい感じを受けます。
さて、この洲崎大神はどんな神社なのであろうか?
洲崎大神ってどんな神社?

洲崎大神は、建久二年(1192)、源頼朝が安房国(現、千葉県)安房神社の御分霊を祀ったことに始まると伝えられている。『江戸名所図会」の様子は、今も鳥居や周囲の地形から感じることができ、神社前から海に向かう参道の第一京浜に突き当たる辺りが、かつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は神奈川宿と開港場とを結ぶ渡船場となった。境内に大きな憶(あわき)の御神木があり、青木町の地名はそこから起こったと言われている。
というわけで、この洲崎大神は安房神社からの御分霊をおまつりしているそうです。テッドは千葉の神社には詳しくないので安房神社?はて?と思ったのですが、いろいろ調べてみると安房神社の近くに洲崎神社という神社があります。この神社は洲崎大神という名前なだけに、なぜ洲崎神社の神様の御分霊じゃないのか?と思ったのです。
いろいろ読んでみると、どうも洲崎神社の神様は安房神社の相殿神である天比理刀咩命 (アメノヒリトメノミコト)の御分霊がおまつりされているのだそうです。つまり、千葉の洲崎神社の神様はもともと安房神社から来た神様なのですな!つまり格式的にも安房神社の方が格上の神社ですし、安房神社からの御分霊がおまつりされているのでしょうな?ちなみに、源頼朝は石橋山合戦に敗れた後、洲崎神社の方で戦勝祈願をしたそうです。
洲崎神社は、安房國のもう一つの一之宮と言われていますが、安房神社よりもかなり新しく、江戸時代の文化9年(1812年)にこの地を巡視した老中・松平定信公が、源頼朝公と洲崎神社との歴史的な関係に深く敬意を表し、「安房国一宮洲崎大明神」という扁額を奉納したことにより一之宮になりました。因みに安房神社の相殿のご祭神(天比理刀咩命)を主祭神としています。ー安房神社の公式サイトから
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境内の御神木?檍(あおき)とは
上にも書いてありますが「境内に大きな憶(あわき)の御神木があり、青木町の地名はそこから起こったと言われている」神社周辺の地名は青木町という名称ですが、その「青木」は境内にあった御神木、憶という木が由来なんですな。そして、肝心の憶の木は戦時中に燃えてしまって現存してないそうです😭

憶と書いてあおきの木、初めてそんな木があると知ったよ〜!どんな木なんだろう?

憶という木はのぅ、日本書紀に出てくると伝えられておる。
じゃが、どんな木であったかは今となってははっきりせんのじゃ。
当時の人々も漢籍の記述を頼りに、それっぽい木を探しておったらしいのぅ。
しかし、「アオキ」という木自体は日本にちゃんとある。冬でも青々とした葉をつける常緑の木で、後世の邦人は、これを古典の「憶」にあてたと言われておるぞい。
ちなみにじゃ、横浜の洲崎大神の御神木は大木だったと言われておるから「アオキ」とは違うんじゃ。おそらく、モチノキあるいはカシノキではないかと考えられておるぞい。


洲崎大神の境内の木は下の方から幹が枝分かれして育っている大木が多く、枝も聳えるように伸びに伸びて、のびのびと育っています。二つの幹がねじれている木もあったし、もしかしたら土地のパワーが強いのかなぁ?元々神社のすぐ目の前は海だったそうです(現在はかなりの埋立地)。海の力も関わっているのかな〜?
かわいい先客がいました

あれ?御社殿の左のスペースに行ってみると、なんと可愛い猫ちゃんが日向で寝そべっていました。亡き父はこんな姿を見るとよく「あずましいね〜(気持ちよさそうに的な)」と言ってたんです。父は弘前に住んでいた頃があったのでそっちの言葉だったそうですが、それを聞いて育ったテッドも普通に「あずましいね」と言っては友達を「は!?なにそれ!?」と驚かしました🤣



色々な顔を見せてくれる猫ちゃん。人慣れしてるな〜と思いきや、首輪をつけておった!どこの子でしょう、可愛い姿を見せてくれてありがとう😍

徐に立ち上がったと思いきや、脇に積み上げられている剪定された木の枝に乗っかって爪研ぎしはじめた。自由すぎる〜‼️🤣
まとめ
初参拝のただものではない雰囲気な神社、洲崎大神…場所ゆえなのか人影もまばら。テッドが訪れた時に参拝客が1人、そして去る時にまた1人という感じでとても静かな神社でした。

ねぇじぃじ、横浜って実に源頼朝がらみの神社多いねぇ〜。都内では太田道灌、横浜近辺は源頼朝だねぇ。源頼朝も太田道灌もなんで神社をあちこち創建してたの〜?

うむ、それはのぅ、源頼朝も太田道灌も、ただの「神社好き」だったわけではないんじゃ。
二人とも、自分の力だけで世の中が動くとは思っておらんかった。戦や政(まつりごと)を進めるには、神さまの後ろ盾が必要じゃと、よう知っておったのう。
源頼朝は、まだ力の定まらぬ頃から、戦勝祈願や土地の鎮めのために、各地の神社に手を合わせた。海に近い横浜や鎌倉まわりでは、航海や武運を司る神を特に大切にしたんじゃろう。神社を祀ることは、その土地と神さまに「ここは我が治める地です」と挨拶するようなものじゃ。
一方の太田道灌は、都に近い関東を治めるため、土地を守る神、城を鎮める神を丁寧に配置した。神社は祈りの場であると同時に、人の心をまとめる拠り所でもあったからのぅ。
じゃから、横浜近辺に源頼朝ゆかりの神社が多く、都内に太田道灌の名が残る神社が多いのは、偶然ではない。二人とも、神社を通して土地と人と神を結び、世の中を治めようとしたんじゃよ。そう思って神社を巡ると、昔の人の祈りや覚悟が、今も静かに残っておるように感じられるのぅ

やっぱり鬼門とかも関係あるのかなぁ〜?

うむ、鬼門の話も外せんのぅ。昔の人にとって、都や城、国を治めるには、鬼門をどう鎮めるかが大事じゃった。
鬼門とは、北東の方角。災いが入り込むと恐れられた方角じゃな。じゃから、重要な都や城の鬼門には、神社や寺を置いて、結界を張ったんじゃ。源頼朝も太田道灌も、この考えをよう知っておった。神社をあちこちに建てたのは、祈願だけでなく、土地の鬼門・裏鬼門を守るためでもあったんじゃよ。
横浜や鎌倉の海沿いは、外から人も物も入ってくる場所。便利な反面、災いも入りやすい。
だからこそ、海に面した場所や街道沿いに、洲崎大神のような神社を置いて、結界を整えたと考えられるのぅ。
神社はただの信仰の場ではない。土地を守るための“見えない城壁”のようなものじゃ。そう思って歩くと、神社の位置や向きが、急に意味を持って見えてくるぞい。

なるほどぞい!この日は横浜の喧騒からさほど離れていない土地にとても静かにひっそりと佇む神様に会えて良かったなぁ。また会いに行くよ〜!



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